2014年10月12日日曜日

市民体育祭 2014

大型の台風19号が関西に上陸するかもしれないと言われていた前日の12日、
恒例の市民体育祭が開催された。

今年ボランティアとして体育祭に参加してくれる留学生は「卢烷楚」と言う名前なので、
パンフレットに書いてもらうためにいつものように早めに名簿を提出した。
にもかかわらず、
パンフレットの名前の欄には「留学生」と書いてあるだけ。・・・・・(-_-;)  
印刷屋さんの字体にはどうも彼女の名前の漢字がなかったようだ。


中国にも運動会はあるけれど、賞品が出るのはないとのことで、
綱引き、飴喰い競争等、楽しんで出ていた。
日本語が堪能なので、
係の他の人達とも意思疎通が良くできたせいか、
彼女が競争に出た時には係のテントの下から応援の声援と拍手が沸き起こった。
(^_^)v



雨が降ることもなく体育祭は終わり、
暑くもなく寒くもない一日で、
快適に参加できて良かった



2014年10月8日水曜日

母に贈る言葉

お母さん、

私を産んでくれ、育ててくれてありがとう。  
一緒にいられたのは、
私が高校を卒業するまでの18年間でした。
その後はお正月やお盆など帰省したとき、
年に数日を共に過ごしましたね。

広沢の家に帰ってくると、
最初の1週間位はお互い久しぶりということもあり
楽しく過ごせたのが、
大したことではないことで、
時々意見が衝突するようになりました。
なぜなのでしょう。
お互い「我」が出てしまったからだと思います。

その点、久子姉さんとは喧嘩することもないようだったので、
いつも少しうらやましく思っていました。
久子姉さんとは約55年間、
人生の3分の2近くを一緒に過ごし、
亨兄さんや、孫になる義哲・里香夫妻の家族に囲まれ、
生まれ育った地域で過ごせたことは、
あなたは本当に幸せだったと思います。

昨日、あなたの箪笥の引き出しの中に、
私の小学校1年生から高校生までの成績表が
まとめて保存してあるのを見つけました。
悪くはないけれど、
とびぬけて良いとも言えないその成績表を通して、
あなたは私の何を見ていたのでしょうか?  
いつも見守ってくれていて、ありがとう。

今年の7月に危篤という連絡を受け、
大阪から飛んできました。
私が病院に着くころは危篤状態を脱し意識が戻ったので、
また元気になると思っていました。
学生時代はバスケットをしていて、
体も大きく丈夫だったので、
おじいさんと同じように90歳半ばまで
元気でいるのだと思っていましたから。
でも、
2度3度と危篤の連絡を受ける度に
段々と痩せ細っていくあなたを見ていたら、
一抹の不安がわいてきました。
それでも、最後まで意識をはっきり持って、
いろんなことに気を配っていたことは、驚きです。

とうとう最後のお見舞いになってしまった9月末の時には、
もう痛みや苦しみから早く解放してあげたいと、
私も思うようになっていました。

そして、
今は痛みも苦しみも感ずることはなくなりましたね。
良かったですね。

もう孫がいる私にとって、
お母さん、
あなたの存在がこんなに大きなものだったとは思いませんでした。
親ですからいつかは先にあの世に行くのは「定め」とは思っていましたが、心のどこかにまだまだ元気に生き続けていってくれると思っていたのです。
喧嘩するのも仲の良い証拠と人はいいます。
こんなに早く行ってしまうなら、
もう少し頻繁に会いに来ていたらよかったと、
あなたがいなくなってしまった今、
心の中で反省しています。
お母さん、ごめんなさい。

そして、時々小さな喧嘩はしたけれど、
私の人生したいようにはさせ、
見守ってくれたあなたにとても感謝しています。

昨夜のお通夜は、
孫である義哲、竜馬、千尋、あなたの好きな若者に囲まれて、
思い残すことはないでしょうね。

この広沢が私の故郷であるのと同じように、
あなたは私の故郷でした。

お母さん、いろいろ、いっぱい、ありがとう。



2014年10月8
奇しくも今日は皆既月食の日だそうです。
あなたはこの月を、どこで見ますか?


あなたを大好きな、美緒子より

また、会いましょう・・・。