2014年11月14日金曜日

オープン ガーデン

御近所のお家で、
毎年「オープンガーデン」として、
お庭を開放してくださるところがある。


今年も菊の花が見事に咲いているお庭に
お邪魔させていただいた。


ちょっとした展覧会より、ずっと見ごたえがあると思う。


2014年11月9日日曜日

献血推進活動

献血推進員になって、
3度目の推進活動。

駅のそばに設置された移動献血車と諸々の設備まで、
通りすがりの人を呼び止め献血の依頼をし、誘導する。

日曜日と言うこともあり、
若い人たちは観光地に出かけているようで、
通るのは高齢者の人が多く、
献血を依頼すると「こちらが輸血をしてほしいくらい・・・」
と断られることも多い。

近くで大阪ガスの駅前展示をしていた。
若者が多いのでその人たちが献血をしてくれたら助かるのにと思い声をかけると、
皆一様に今仕事中ですから、みたいな回答が来た。
ただ、
中の一人が、「ガスコンロを買ってくれたらしますよ!」と言うので、
献血してもらうたびにコンロを買うわけにもいかず、断念した。
(-_-)


私が不慣れなせいもあり、
今回は赤十字の職員も早目に来てくれたので、
少し楽だった。
ただ、
朝9時から夕方5時過ぎまで、
ほとんど立ちっぱなしてボランティアすると言うのも疲れる。

若い職員達は受付業務をするときは椅子に座っていて、
時々暇になると街頭に立つくらいなので良いかもしれないけれど、
高齢化しているボランティアたちのことを考えると、
これからはどういうことになるのだろうかと、
少し心配になる。

献血結果は、
42人の人が受付したけれど、
採決出来た人は34人。

朝から雨が降っていた割には、
沢山の人が協力してくれたと思う。

2014年11月1日土曜日

「健康フラダンス」 発表会 2014

今年の「健康フラダンス」の発表会は
11月1日と2日の土、日曜日でした。

「ククナ・オ・カ・ラ」による、"フラ・オ・マキー"

1日の北千里地区での発表会は、
「一番最後なので好きなだけ踊ってもいいです」とは言われていたけれど、
そういわれてもそんなには踊れない。
舞台が小さいので全員で踊ることはなかなかできなくなって来たけれど、
2つのグループが交互にドレスを替えながら踊るには、
丁度良い大きさかもしれないとは思う。

発表の時間はほぼ時間通りに始まり、ほぼ予定していた時刻に終れた。

「スィート・サン」による "パパリナ・ラヒラヒ"

2日の勤労者会館で行われた吹三地区公民館の文化祭では、
やはり一番最後のトリ。

公民館の方からは「ドレスが華やかで映えるから最後にふさわしい」
と言われているとのこと。
確かに・・・、
「健康フラダンス」は踊りもさることながら、
ドレスは見た目を華やかにしている。
少なくともドレスの華やかさはイメージとして残るかもしれないから。

前日、
時間が余るかもしれないので、
アンコールをしてもらえませんか?と連絡が来た。
いつも一番最後に全員で華やかに踊って終わるように構成しているので、
音楽のコンサートみたいに軽い曲をアンコールとして簡単に踊る、
というわけにはいかない。
せっかくの御依頼だったけれどお断りしなければならなかった。

出番は13時だったので、
朝家で出かける用意をしていたらメンバーから電話があり、
「まだ3番目のグループなのに、もう30分も出番が早くなっています!」
\(◎o◎)/!

ジャッキーによる、"プア・オ・カ・マカハラ"
母からのお下がりのドレス、です。
以前、早い時には1時間半近くも出番が早くなっていたので、
今年も同じようになるのかもしれないと覚悟はしていたけれど、
30分位、早くて1時間との読みは間違っていたかも・・・と、
急いで会場に行くと、
プログラム通りの予定時間になっていた。
前の二胡のグループが時間調節をしてくれたようだった。
司会の人も調節するのに大変だったとは思う。
良かった。
 (^_^)


発表中はそれなりにいろいろあったけれど、
一年かけて練習してきた成果を発表し、
皆、ほっとしたようだった。

お疲れ様でした。

m(_ _)m


我が家の、中国から来た留学生のワンチューが
カメラマンとして写真を撮ってくれました。


☆ ☆ ☆
一番最後に出る人を、
「とり」と言うのは何故なのか不思議に思ったので調べてみました。


2014年10月12日日曜日

市民体育祭 2014

大型の台風19号が関西に上陸するかもしれないと言われていた前日の12日、
恒例の市民体育祭が開催された。

今年ボランティアとして体育祭に参加してくれる留学生は「卢烷楚」と言う名前なので、
パンフレットに書いてもらうためにいつものように早めに名簿を提出した。
にもかかわらず、
パンフレットの名前の欄には「留学生」と書いてあるだけ。・・・・・(-_-;)  
印刷屋さんの字体にはどうも彼女の名前の漢字がなかったようだ。


中国にも運動会はあるけれど、賞品が出るのはないとのことで、
綱引き、飴喰い競争等、楽しんで出ていた。
日本語が堪能なので、
係の他の人達とも意思疎通が良くできたせいか、
彼女が競争に出た時には係のテントの下から応援の声援と拍手が沸き起こった。
(^_^)v



雨が降ることもなく体育祭は終わり、
暑くもなく寒くもない一日で、
快適に参加できて良かった



2014年10月8日水曜日

母に贈る言葉

お母さん、

私を産んでくれ、育ててくれてありがとう。  
一緒にいられたのは、
私が高校を卒業するまでの18年間でした。
その後はお正月やお盆など帰省したとき、
年に数日を共に過ごしましたね。

広沢の家に帰ってくると、
最初の1週間位はお互い久しぶりということもあり
楽しく過ごせたのが、
大したことではないことで、
時々意見が衝突するようになりました。
なぜなのでしょう。
お互い「我」が出てしまったからだと思います。

その点、久子姉さんとは喧嘩することもないようだったので、
いつも少しうらやましく思っていました。
久子姉さんとは約55年間、
人生の3分の2近くを一緒に過ごし、
亨兄さんや、孫になる義哲・里香夫妻の家族に囲まれ、
生まれ育った地域で過ごせたことは、
あなたは本当に幸せだったと思います。

昨日、あなたの箪笥の引き出しの中に、
私の小学校1年生から高校生までの成績表が
まとめて保存してあるのを見つけました。
悪くはないけれど、
とびぬけて良いとも言えないその成績表を通して、
あなたは私の何を見ていたのでしょうか?  
いつも見守ってくれていて、ありがとう。

今年の7月に危篤という連絡を受け、
大阪から飛んできました。
私が病院に着くころは危篤状態を脱し意識が戻ったので、
また元気になると思っていました。
学生時代はバスケットをしていて、
体も大きく丈夫だったので、
おじいさんと同じように90歳半ばまで
元気でいるのだと思っていましたから。
でも、
2度3度と危篤の連絡を受ける度に
段々と痩せ細っていくあなたを見ていたら、
一抹の不安がわいてきました。
それでも、最後まで意識をはっきり持って、
いろんなことに気を配っていたことは、驚きです。

とうとう最後のお見舞いになってしまった9月末の時には、
もう痛みや苦しみから早く解放してあげたいと、
私も思うようになっていました。

そして、
今は痛みも苦しみも感ずることはなくなりましたね。
良かったですね。

もう孫がいる私にとって、
お母さん、
あなたの存在がこんなに大きなものだったとは思いませんでした。
親ですからいつかは先にあの世に行くのは「定め」とは思っていましたが、心のどこかにまだまだ元気に生き続けていってくれると思っていたのです。
喧嘩するのも仲の良い証拠と人はいいます。
こんなに早く行ってしまうなら、
もう少し頻繁に会いに来ていたらよかったと、
あなたがいなくなってしまった今、
心の中で反省しています。
お母さん、ごめんなさい。

そして、時々小さな喧嘩はしたけれど、
私の人生したいようにはさせ、
見守ってくれたあなたにとても感謝しています。

昨夜のお通夜は、
孫である義哲、竜馬、千尋、あなたの好きな若者に囲まれて、
思い残すことはないでしょうね。

この広沢が私の故郷であるのと同じように、
あなたは私の故郷でした。

お母さん、いろいろ、いっぱい、ありがとう。



2014年10月8
奇しくも今日は皆既月食の日だそうです。
あなたはこの月を、どこで見ますか?


あなたを大好きな、美緒子より

また、会いましょう・・・。


2014年8月11日月曜日

ITC 卒業のご挨拶 


「ご機嫌いかがお過ごしでしょうか?

私、
前期2013-2014を持ちまして、
ITCを卒業することにいたしました。

ITCに参加させていただき、
皆様には色いろなことを教えていただき、
また、時としてご一緒に活動させていただき、
大変勉強になりました。
ありがとうございました。

ITCでは2 7年間学ばせていただきました。
昨年度の世界大会のスピーチコンテストでファイナリストとして残ることもできましたので、
自分としてはITCを卒業することに
充分な理由ができたと思っています。

これからは、
ITCで学んだことも生かしながら
ゆっくり、楽しく活動していこうと思っております。

皆様にはこれまでのお付き合いにお礼を申し上げます。
またいつか、どこかでお目にかかれることを楽しみに、
卒業の御挨拶とさせていただきます。
ありがとうございました。

皆様のご健康、ご活躍をお祈りしております。」



月に1回とはいえ、27年間通い続けたITCを卒業することにし、上記の御挨拶文をメンバーの方々にお送りした。

ITCを初めて知った時は、英会話のクラスだと思い、帰国してから英語を使わなくなり始めた生活に少しでも英語を忘れないようにするために参加したのだけれど、英会話のクラブと言うより、英語を使って実社会で役に立つグループなどの運営の仕方を学びつつ、自分で勉強するところだった。

会員の人達は、それぞれが光るものを持っている、また前向きな人たちばかりで、そういう人達に褒めていただいたり、叱咤激励されたりされた中で、自分が少しずつ成長しているのが実感できた。
それでも27年間ともなると、マンネリ化や、毎月の英語での宿題が歳と共に負担に感じられるようになってきている自分もいた。

そんな中で世界中のクラブから選出されたスピーカーによるスピーチコンテストがハワイで行われ、そのコンテストに出場できることになった。世界中から選ばれた20人近くのスピーカーの中で、母国語でない英語で最終予選の6人に残れたことは、思ってもいなかったこともあり、自分に少し自信を持もつこともできた。

また、ITCと言う組織が、"PowerTalk"というブランド名で歩き始め、組織の内容も少しずつ変化してきている中で、最初のころが懐かしく思われると言うのは、私が最近のその組織に合わせられなくなってきている、と言う感じもどこかにあったので、丁度良い機会だと卒業に踏み切ることができた、とも思う。

ただ、何も知らなかった私が、それなりにいろいろなことを知るようになったのはITCのお蔭もあり、まだITCを知らない方々には、是非参加されることをお勧めしたい。

ITCありがとう! 
m(_ _)m
ますますの発展を陰ながらお祈りしています。



2014年7月19日土曜日

母の入院

13日の日曜日に、実家の母の様態が思わしくないと連絡があったので、いろいろ予定もあったので17日に帰郷することにしていた。

ところが14日の朝、「緊急入院して、医師からはご家族の方をお呼び下さいと言われた」と連絡が来た。
あわてて帰郷し、入院先の病院に着き母のベッドに行くと、先に着いていた息子が「意識があるような無いような感じだったけれど、ママが来たら意識がはっきりしてきたみたい」とのこと。
目を開けて、こちらの問いかけには頭を振って「そう、違う」と意思表示をする。
気を使っていろいろ話しかけていたら、動かせる手を振って「もう、帰っていい」とのこと。
私の問いかけがうるさかったので、静かにしたかったのかと病院を後にした。

次の日病院に行くと、意識もはっきりして、筆談もできるようになっていた。
でも、前日のことは何も覚えていないとのこと。
時間と共にみるみる回復し、3日目には食事もでき、立つ練習までできるようになった。
高齢で毎日暑いこともあり、熱中症や脱水症の類の結果らしかった。
それにしても、意識がなくなったのが病院に診察に行っていた時だったので、迅速な対応をしてもらえたのが功を奏したと思える。

ただ、母は昨年末位から呼吸が苦しい、胸が苦しいと言うようになり、病院で数か月の間何回も検査をしてもらっていたけれど、理由は分らないと言われていたとのこと。
それが6月に緊急で病院に運ばれたときに丁度見てもらった外科の医師から、心臓のそばの血管が詰まっていると言われ、急遽血管4本の拡張手術をして、ペースメーカーも入れることにした。
そのせいで、それまで見てもらっていた医師がどうして血管が詰まっているのを見つけられなかったのかと、とても不思議に思っている。
聞いている私でさえ、レントゲンを撮ったりあちこち調べたり、何度もしていてわからないと言うのは、まだ日本の医療技術がその程度なのかと、少し残念に思う。

「病院は24時間介護とのことで、家の者は何も手を出さなくても良いて言われた」と姉が言っていた。
ところが、お見舞いに行っていて母が食事を済ませた後部屋のソファーに私が座っていたら、食器を取りに来た看護師さんが「お箸とスプーン、良いですか?」と手に持って言う。
お箸と、スプーンの何が良いのか?どう良いのか意味が分からないでいた。
続けて、
「お家の方ですか?」と聞くので「まあ、お家の方みたいなものです・・・」と言いながら私の立場を説明し始めたら、お箸とスプーンを洗面所で洗いだした。たった2,3秒。
つまり、お箸とスプーンを私に洗ってくださいと言うことだったのだと気が付いたけれど、24時間介護とは何なのだろう、部屋の奥にいる人にわざわざ渡してお箸とスプーンを洗ってもらうと言うのはどういう意味があるのだろう、「???」のひと時だった。

また、完全介護と言う意味が今ひとつわかっていないので、不思議に思うことがある。
患者の使うおしめ用のパッドとか、拭き取り用のナプキンとか、お箸やスプーンなども含め個人使用の物はそれぞれが自分で買って用意するのだと言う。
完全介護と言うのは、全ての必要品を病院が用意すると言うことだと思っていたけれど、どうもそうではなさそうだと言うことも分かった。

それにしても、久しぶりに訪れた病院は、酸素マスクにしろ点滴の器具にしろ、とても機械化されていて、随分進化していると驚くことも多かった。

願わくは、
元通りとはいかないまでも、
日常生活が自分で不自由なくできるように
母が回復しますように。