2014年1月2日木曜日

2014  初詣


2013年のNHKの大河ドラマ「八重のさくら」は、同志社大学の創立者新島襄の妻・新島八重の生涯を描いたものでした。

 
会津の砲術師範の家に生まれ育った八重は、当時男がするものと言われていた銃の撃ち方を学び、江戸時代後期から明治にかけての戊辰戦争の時には会津の鶴ヶ城に籠城し、銃を持って戦ったそうです。その後、京都府顧問となっていた兄の山本覚馬の所に住み、米国から帰って来た準宣教師の新島襄と知り合い結婚し、襄の同志社大学設立に兄と共に協力したとのことです。

「戊辰戦争」(ぼしんせんそう、慶応4/明治元年 - 明治2年(1868 - 1869))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本内戦。名称は慶応4/明治元年の干支が戊辰であることに由来する(Wikipediaより)

男尊女卑が当たり前の時代に、自分のしたいと思うことをやり通した八重の意志の強さに、ドラマを見ていて少なからず感動しました。八重や襄、山本覚馬達のお墓が南禅寺の裏山の「熊野若王子神社(くまのにゃくおうじ神社)」の墓地にあると言うことで、南禅寺や平安神宮への初詣のついでにお参りすることにしました。

今回は留学生は都合で不参加です。東京から息子が参加しました。

まず、南禅寺にお参りしました。
お堂の前に大きな鉢があり、その中にはお線香がいっぱいあり煙がもうもうと立っていました。皆、その煙を自分の体につけていたのですけれど、何の効果があるのかは聞きそびれました。その近くのお堂の廊下には「禁煙」の表示が・・・。  ( ;)

境内には琵琶湖疏水の水路橋「南禅寺水路閣」が通っていて、花崗岩のアーチ型橋脚は落ち着いた佇まいで静かな東山の風景にとけこんでいました。
 
南禅寺の境内の中の疎水の水路橋

南禅寺から北に登って東の方に曲がったところに「熊野若王子子神社」があります。
熊野若王子神社
「熊野若王子神社」:1160年(永暦1)後白河上皇が紀州熊野権現を勧請(かんじょう:神仏の分身分霊を他の地に移して祭ること)して創祀した永観堂の守護神としての神社である。京都三熊野のひとつ。紅葉の名所。
尚、当社の南側の裏山に同志社創立者新島襄の墓がある。熊野御幸の起点でもある。後白河上皇は34回行かれた。(説明の字が難しく、意味も分かりにくいが「京都観光Navi」より抜粋しました。)

お正月のせいか、お神酒や甘酒が無料で振る舞われていました。小さな可愛らしい神社で、参拝客もそれほど多くなく、甘酒を頂くのにもゆっくり座れ、ほっとできる場所でした。

新島襄達のお墓は神社の墓地の一角で、神社から約20分と言われる山道を登って行きます。思いもかけず急な部分もあり、寒い中でも汗をかいてしまいました。
向かって左が八重、右が襄の墓碑

新島襄と八重のお墓は並んで建っていました。襄の碑銘は勝海舟が書いたけれど「島」の横棒が一画足らず、一方、八重の碑銘は徳富蘇峰が書いたとされ、こちらの「島」の字は「嶋」になっていました。夫婦なのにいろいろな苗字になっています。 (>_<)

ともかく、お二人とも仲良く、安らかに眠ってください。
 
山を下り、再度熊野若王子神社で一休みして、平安神宮に向かいました。

平安神宮
平安神宮は熊野若王子神社と比べ、初詣の人が多いのには驚きました。(@_@)
とは言え、伏見稲荷大社に比べたら、まだまだゆったりとお参りできる感じです。
赤い大きな鳥居と、本殿の軒下に飾られた刺繍でできていると思われるタペストリーも見事でした。

新島襄旧邸
その後新島襄の旧邸を外から垣間見て、御所の中を横切ってから地下鉄に乗りましたが、家を出てからこの時点でほぼ18千歩歩いていました。

旧所名跡の多い関西にいるせいか、少しずつ歴史について理解が深まりつつあるのがわかります。学生時代ならもっと良かったと思いますが・・・。

これはと思ったお店が混んでいたので、四条烏丸近くの[魚民]と言うところで夕食を取ることにしました。居酒屋みたいなところは久しぶりです。
席料を取られたり、お通しなるものが勝手に出てきて料金を請求されたり、無料のお茶が無かったりで、驚くことばかりでした。お酒を飲まないこともあり、もう魚民に行くことはないと思います。

今日は行きたいところに行けて、少し足が痛くなったけれど沢山歩けて、夜はとても良く眠れそうです。

(-_-)zzz
 
 
 
 
 
 
 

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